シルクヒストリー オリジナルバイク 部雛製作 リペア カスタムオーダー お問い合わせ
東京オリンピック100mトライアル
佐藤選手のスタート
 
100mトライアルスタートで
風を気にする佐藤選手
ベルギーのセルキュ選手のスタート。
 
シルク号自転車ヒストリー
戦後の自転車の本場ヨーロッパが遠い国で、物も情報も少ない日本が世界に出て戦うために独自の製法が生み出されました。
D2×D2のバデットチューブ・ユーテックテックによる低温溶接でのラグレス・それを進化させたシルクラグ、鋼鈑製の軽量ホーククラウン2枚肩など独自の技術で作り上げたレーサーで世界と戦い、実績を残したのです。
  1964年東京オリンピック出場車の日本ロードチームの使用車はシルク号でした。

その翌年アムステルダムで行われた世界選手権においてスクラッチでベスト8に入った平間選手の使用車もシルク号です。
     
1965年世界選手権スクラッチの平間選手(左)
 
タンデム車
東京オリンピック出場のタンデム車は100%イタリアなど外国製と思われがちですが、日本でも作られていました。
 
     
 
 コラム 大家「悪魔に魂を売る」 (シルクダイアリーより再録)
●1950年代から1960年代は、ヨーロッパまでの距離は今より遠かったし、ヨーロッパの自転車関係の訪問・滞在記事等で情報を得ていたし、大変興味の有るものだった。 
  戦前のサイクリングスタイルは英国スタイルを研究していたが、その後多くの自転車人は、鳥山新一先生の影響等もあり当時、自転車の最も進歩してた国フランスの自転車の紹介、体系化をしていた。ランドヌール・シクロスポルチフ等は当時の車種名が今も残っている物で、このタイプに準じる自転車は現在フランスでも量産されていない。自転車の車種体系は時代と共に変わる。

●1960年70年代に戦後の自転車先駆者の多くがヨーロッパを訪れ、それぞれの記録がニューサイクリングに掲載された、山王スポーツの高橋 長敏さん、杉野鉄工の杉野 安さん、そしてその後の大家TOM氏の記事は詳細を解説してあり、その中から私はフランスの車種体系を知っていった。ただその当時、その車種体系は普遍だと思っていた。
 80年代、私は片倉自転車に勤務していた。その当時、神奈川大学で自転車のセミーナーが度々開催された。神大では自転車の走行ロボットを研究しており、その研究室が主催していた。そのセミナーにミヤタ自転車に居られた大家TOM氏を招いて、セミナーが開催されると話を聞いて、憧れのTOM氏の話を聞こうと参加させていただいた。
 その頃、TOM氏はフランス車の解説記事ではなく、ヨーロッパのレースとレーサーの記事を書かれ、エディメルクス・ミヤタの自転車を企画して、その後コガでのレース活動の道をつけ、国内レースでも最強のミヤタレーシング監督も勤めた。そんな憧れの大家の話を聞けるのだ。

  講演の内容は、、北米でのバイコロジー運動で一挙にスポーツ車の需要が増え、日本製の部品を付けた。日本の名前の10スピード車(27X11/8のドロップ車)が多く輸出されていた。たとえば、フジ、ニシキ、カブキ、等のブランドでシマノ・サンツアーの仕様で有った。全盛期の日本自転車産業は世界制覇を目指していた。
  世界に通用する自転車を作る=ツールで勝つ! と認識して行動していた日本の自転車会社はシマノ、ミヤタでシマノはジュラエースをフランドリアチームを使い挑戦して、ミヤタはオランダのコガと組んでコガ・ミヤタでレース参戦しているとの内容であった。

 講演が終了して、質疑応答の時間が持たれた。一人の熱狂的フランス車党でその後、筑波でフランス車の店を営んだO氏の「性能の劣る部品、例えば当時のフランス部品は無くなっても良いのですか」との問いに「機能を追求して行くのが自転車で、デザインはその機能と追及して出来た型で、性能が劣る物は淘汰される」と答えた。
過去にフランス車を細部に渡り追求した大家も、過去より未来を目指していたので有ろう。

●1986年のプラザ合意は世界の自転車生産の地図を塗り替える、キッカケになった。
日本の自転車産業・特に完成車の輸出は大幅に減少して、台湾が自転車輸出大国に成長、マウンテンバイクブームも到来して、自転車フレームの製法もTIGに変貌した。
既存のメーカーの商品では物足りず、しかし、日本の商社のブランドではなく、アメリカでの企画、プロモーションと販売、台湾での生産を組み合わせた新興勢力のブランドが北米で成長した。
その時、日本の完成車メーカーの目標「世界に通用する自転車を作る=ツールで勝つ!」は消えた。唯一シマノだけがその目標に向かっていた。

●1980年後期、マウンテンバイクブームは世界中に広まる、勢いだった。そんな中、台湾の自転車業界のリーダー巨人自転車工業が世界に販売会社を設立していた。日本では輪界新聞等で責任者の募集をしていた、当時、日本での自転車生産の未来を見失っていた私は、大変興味が有り応募してみた。
しかし、その後、返事も無く2年が過ぎようとしていた時、突然、日本での責任者が内定して、販売会社をスタートすると言われた、なんとその責任者は大家TOM氏であった。
1988年の年末、憧れのTOM氏と面談、なぜ巨人にとの問いに「悪魔に魂を売った」との返答であった。

●巨人自転車の日本販売会社は1998年創業です、その翌年片倉シルクも藤森社長を失い、三和グループの一員になった。
三和はセーラー万年筆の関係会社、台湾での生産、カナダでの販売等を行ってきた会社なので、巨大機械工業からの輸入もしていた。その時の巨大機械の日本担当者は、その後部品のブランドを立ち上げ、今や世界的なプランドになっている。

 90年当初はNISE製品と言われ、やすかろう悪かろうの製品と認識されて、自転車店の店頭には自転車組合で作った「NISE製品お断り」の貼り紙が有って、台湾の巨人は苦戦のスタートだった。つまりその当時、日本自転車界から見れば巨人自転車は悪魔だったのだ。
当時にマウンテンバイクブームが世界的に加熱して来て、シマノ・アラヤ等の部品は品薄で有ったが、巨大だけはその企業力でなんとか確保できた、この辺が巨人の成功の理由だったと思う。

その後、大家は台湾本社の人事により来た社長とあわず退社して、LGブランドを立ち上げた。
マウンテンブームも一段落してきた21世紀、巨大はついにツールに参戦した、ツールもアームストロングにより、アメリカでのスポーツ用品のプロモーションと、見せるスポーツのメディア戦略により、大リーグ・NBA化したので、台湾企業は理解し易い状況にもなっていた。
ついに悪魔は日本自転車業界の目標もかなえたのだ。
 
     
SILK BICYCLE FACTORY