究極の自転車とは何か
乗り手を理解してこそつくられる
ハンドメイドの自転車
自分だけのためにつくられる製品。それは、どんなブランド品よりも価値がある。特に自転車は、一人ひとりの身体や特性によって乗り心地や安全性が大きく違う。自転車をこよなく愛し、その機能を追求している絹自転車製作所の荒井社長は、長年の経験に裏打ちされたスキルと、最先端の素材で、優れた新しい自転車を黙々とつくり続けている。
日本が秀逸なスポーツサイクルをつくり、それを世 界に証 明したのは1964年の東京オリンピックでのこと。日本のロードチームが使用したのは、片倉工業が製造したシルク号だった。シルク号は選手たちの間でも認められ好成績へと導き、大きく評価された。それは、日本のサイクル史における最も輝いていた黄金期のことであり、数ある国産メーカーが、競って優れた自転車をつくっていた時代だった。
絹自転車製作所の荒井正社長は、子供の頃から自転車が大好きだった。速くてかっこいい自転車に憧れていたのである。そんな荒井少年に衝撃を与えたのは、70年代のサイクル雑誌だったという。
「カスタムサイクルの存在を知って、驚きました。想像した自転車が自分でつくれるなんて、感激しましたよ」
そこから荒井少年は、自分の自転車をばらしては、組み立てることをはじめる。自転車好きが高じ、自転車競技では国体に出場する選手にまでなった。学生生活が終わると押しかけるように、シルク号を生み出した片倉工業に入社。自転車製造に没頭し、マニアシリーズの企画、設計までもを手がけ、自由に理想の自転車を追求していた。しかし、やがて自転車も量産の時代に突入。大手メーカーに押され、数多くの自転車メーカーが元気を失っていった。
自分のメーカーをつくる使命
時代の流れのなかで、片倉工業も自転車製造を諦めていくわけだが、荒井社長はそのとき不要となった工作機械の数々を自ら引き取っている。
「自分はいつか、メーカーにならないといけないと思っていたので、そうやって機械も集めていました」
埼玉に倉庫を用意し、スクラップ同然の機械をストックしたものが、のちに絹自転車製作所として機能することとなる。
自転車製造の時代は台湾へ
片倉工業を退職した荒井社長は、一度は小売として開業をしたものの、円高が進み、日本の自転車製造はさらに厳しい状況に追い込まれていった。次に未来を担うのは台湾だとふんだ荒井社長は、台湾の自転車メーカーに入社する。いい自転車がつくれれば、どこでもよかった。
「いい自転車をつくって提供する。価格が合わないと負けていく。それだけでした。いい自転車がつくれて、価格が安くてお客さんが喜ぶのは、当時は台湾しかなかったのです」
最初は台湾製品を受け入れなかった日本も、やがてマウンテンバイクブームが加熱すると状況が一変。マウンテンバイクの製造のほとんどを担っていた台湾の自転車が、日本でも飛ぶように売れていった。
グローバル化が消した自転車文化
台湾の自転車が売れるのはいいが、“世界的に売れているものイコール優れたもの”と捉える日本人に、やがて荒井社長は疑問を持ちはじめた。かつては、独自の優れた自転車を製造した経験もある日本だが、そんなことはとっくに忘れられている。
「あまりに効率や価格ばかりを重視した結果です。世界に発信する文化の背景が、日本に残っていないと気づいた時、恥ずかしくなりました。グローバル化が進むと個別化がなくなる。そんな状況が今度はイヤになったのです」
一対一で向き合うものづくり
「顧客と向き合い、一対一でつくるのが本来のものづくりだと私は思うんですよ。個別のものづくりを支持しないと、メイドインジャパンなんて、なくなってしまいますから」
こう断言する荒井社長。
荒井社長が、絹(シルク)を名乗り、製作所を再開して8年。ものづくりの本来の姿に立ち返り、職人として乗り手とコミュニケーションをとりながら、コツコツと自転車をつくりあげている。日本の自転車製造の現状がどうあれ、荒井社長は一 人ひとりに対応した良質な自転 車を生み出す未来しか見ていない。
「値段はちょっと上がるけど、ひとつひとつを見極めながら組み立てるから、その自転車にはストーリーが生まれる。それが、面白さや実感に反映されるんです。その価値をわかってもらえれば嬉しいですね」