ジテンシャ 人間コグ宝
自転車界に輝く一番星的人物にご登場いただく連載企画。第三回目は数々の傑作・名作自転車を世に排出したビルダー界の巨星「シルクサイクルズ」の荒井正さん。
シルクサイクルズの工場を訪れたのは残暑厳しい日の事。熱気がこもる工場内でバーナーに火を入れ、玉のように流れる汗を拭いながら溶接をしている荒井さんがいた。
「ビルダーとして一から十までできるから、何でも自分ひとりでやってしまうんです。ただ、夏場はもの凄く暑いから、オーダーがあってもあんまり作業したくないのが本音で(笑)」。
オーダー車を作るのにどの位の時間がかかるのか?
「溶経から塗装も入れて約1週間程度。費用対効果的にもギリギリなラインですね。でもその位ストイックな方がいい。もうけるのだったら徹底的にコストと製法を安くすることでもできてしまいますが、自転車は車のようなエ業品とは違う。ビルダーとして自転車作りの最前線にいると、人が触れる工芸品のような側面があることを感じるのです。自転車の歴史を振り返ると工業製品として、いい自転車を求めて進歩してきた事実がある。今までは東京オリンピックで活躍したシルク号のようにオリンピックで勝てる自転車を、ジャイアントのようにツールドフランスに出て、世界的メーカーになったりとか。エ業製品としての成熟を求めてがんばってきた。より強く、より早く、より安くとね。ただ、最近ではそれ以外の価値を自転車には求められるようになった。早くなくたって良い。ゆっくりじっくり自転車生活を楽しむと。第一線にたつビルダーとして、その世界を構築するためにカは惜しみたくない」。
ビルダーとなったきっかけとは
熱く語る荒井さんだが、そもそも、自転車業界に入るきっかけは幼少時代にあったという。
「原点は子供時代ですかね。1970年代に発行されたサイクルスポ-ツ二号を見て、自転車は作れるということを知った。それまでほ自転車は買うものだという認識があったため衝撃的でした。欲しい自転車は何でも作れるんだ! と思ったのがビルダーへの第一歩かな。子供だったからカスタム自転車のイラストを見て、直感的にあぁコレが欲しいなぁという憧れていましたね。中学の頃は金がなかったので、ちょっとしたパーツを買ってきて10段変速改造を、軽快車をスポーツ車のシステム、スタイルに近づけようと。それから、ランドナー、スポルティーフやロード…と知るに従い、欲しくなる乗りたくなる(笑)。高校は川越工業の建築科に進んだのですが、そこに自転車競技部もあった。自分はサイクリング指向だから競技はやりたくないなと思っていたんですが、ロードレーサー乗りたさと早く走れると格好いいと思って、ついつい入部を(笑)。ただ、川越工業の自転車競技部というのは自転車競技の名門校だったのですよ。ですから、望みもしないのに競輪選手育成プログラムに組み込まれてしまい、そこで体育会系の生活にどっぷりと(笑)。部ではメカニックなんて雇えないから、保守管理なんていうのは自分でやります。だから、サイクリング好きでメカが好きなんていう状態だと、先輩から整備を頼まれる。別に嫌いじゃなかったので喜んで引き受けましたが。一流の競技機材に触れられたので楽しかったですね。雑誌とか見ていて最新機材動向など調べましたし。他の部員は××先輩は何秒だったとか、今日は××秒だったとかに興味があったみたいですが、僕は××先輩が何乗っているのかという方に興味があった(笑)。で、何時の間にか関東大会に優勝、インターハイでも入賞してたんですよね」。
瓢々と語ってますが、かなり凄いことですよ。
「まぁ肩で風切って歩いているような状態でした(笑)インハイに入賞してから競輪選手というのが王道でしたが、自分は王道なんかいきたくないので長距離に進みましたね。前回に登場した鈴木光弘君なんかと途中まで同じですよ。ロードマンだとBSと意習してましたからBSに入って、鈴木君の先輩になってたかも(笑)。でも、その頃、スポーツの名門は片倉シルクだったんですよ」。
で、片倉シルクに入社されたと。
「競技でポチポチ結果を出していると、お前はどこに進みたいのかという話がくる。ただ、自分は走るより自転車を作りたいなと思っていたのです。そこで、ビルダーの道を考えるのならBSはちょっと違う。それで片倉を希望したのですが、当時、片倉は募集なんてやっていなかった。ただ、間を取り持ってくれる人がいて運良く入社できましたね。結局、片倉には6年程いたのですが、直ぐにレーサー技術部門に入れてもらえたのが幸いでしたよね。企画開発部門で、自転車の企画から製造までを網羅することができましたから。好きな事をやらせてもらった手前、走らなければいけないなと思って実業団競技もやったら入賞しちやって(笑)。ただ、フルタイム働いての入賞でしたから、条件はかなり厳しかったですよ。だけど、フレーム作れる奴が早い=格好イイ。そんな思いでガムシャラにやってましたね。でもやっぱり、そんな頑張りを続けているウチに、他の世界も見てみたいという気持ちが目覚めてくる。」
片倉シルクから、当時勃興しつつあったジャイアントに移られたのはそんな頃ですか。
「そうですね。ただ、その頃、ジャイアントに移った日本人は教えてあげるというスタンスでしたね。俺らは日本で自転車作りのノウハウもあるし、ヨーロッパ自転車の研究もしている。お前らには分からんだろと(笑)。80年代に世界No.1だった日本の技術が移管したので生産技術は大幅な向上を遂げましたね。ただ、中小企業が連合体となって作る日本の自転車製造とは異なる世界でした。台湾は北米でのスポーツ車ブームを見て、一挙に何百万台も作る。日本はいろんな自転車があるのでそれ一本というのは難しい。だから、まず想定している規模が違うし、とにかく世界的スケールでメリットを得るという考え方が日本のメーカーとは違いましたね。良い悪いは別として工業品としての論理が優先される世界」でも、そんな環境下にもあって、荒井さんはMR・4(〓〓の知床編でも登場する)フォールデインクバイクの傑作を生み出しましたよね。
「あれはグローパル企業の中にある、日本という地域にあって何が発信できるかというのを考えて作ったんですよ。台湾(本社)は90年代、既に生産技術の面で完成車メーカーとして問題がないレベルでしたね。90年代からは日本がぶっちぎりの最先端技術ということはなかった。マーケット的な面では存在感はありましたがね。文化的発信ではアメリカのMTBが世界的に流行し、次のロードバイクの本場はヨーロッパ。となると、日本は技術や文化で自転車文化の担い手にはならないという焦燥感があった。唯一、シマノのパーツ位。そこで、他地域にないもの。高度なフォールディングバイクを作ろうと思ったんですよ。ただ、企業側としては、世界規模でやりますから一流デザイナーに頼んで作ろうと。そこで、イギリスのデザイナーに依頼してましたね。そんな話を聞いてたら頭にきて。日本や日本人が馬鹿にされていると。こっちの方が良いモノが作るれるとね。」
日本人ビルダーとしての矜持
その後、ジャイアントを辞めて、片倉シルクの名を継ぐシルクサイクルズを立ち上げたのは、そんな思いとは無縁じゃなかった。
「正直恥ずかしいんですよ。今でも自転車の世界は欧米ブランドに踊らされる。例えばアメリカなんかはグローバル理論を振りかざし、一旦ハンドメイドを否定してビルダーが壊滅寸前だった。ところが、そのグローバル論理に嫌気がさして、また再びビルダーが増加している。それに日本ユーザーが飛びついてしまうという構図。日本には古くから頑張っているビルダーがいるのにそれを無視して、お前ら本当にモノを見て買っているのかと。それで良いのかと。日本も自転車文化の担い手たるビルダーを増やさなくてはいけない。ただ、色々と考えてしまうこともあるんですよ。今まで、日本のビルダーは徒弟制度のうえに成立していたのですよ。3万円の小遣い程度で12時間働けという世界。それでは今の若者はついてこない。さらに、パンク修理をはじめメンテナンスすらまともにできない専門員が増えていることが問題。僕なんかはビルドからメンテナンスまでできるから分かるのですが、自転車生活を豊に送るためにはビルダーを頂点として自転車サービスができる人が増えることが必要だと思うのです。それが、長い目で見て自転車界全体の発展にも繋がる。最初に申した自転車生活を豊かにする鍵はそこなのです。ビルダーとして後進を引き上げなくてはならない。色々と苦難もありそうですが実現させますよ。そもそも自分は自転車業界で生き、時代にも翻弄されてきた。為替ひとつで会社がふっとぷような世界をね。ただ、それを自ら選んできましたから。まさに自転車の波乱万丈。まだまだ続けますよ(笑)」